フィリップ・ファラルドー監督の作品で、スーダンの内戦による孤児、ロストボーイと呼ばれた子供たちの実話をもとに描いた作品です。
1968年、ケベック・ハル生まれのカナダ人、オタワ大学でカナダ政治学、ラヴァル大学(ケベック)で国際関係学を学びます。TVシリーズ「La Course destination monde」(世界各地で撮った短編映画で優劣を競いあうコンテスト番組)に挑戦。そこで20本もの作品を監督し、IDRC賞を獲得し優勝を飾ります。
1997年、カナダの中国系移民についての中編ドキュメンタリー「Pate chinois」を監督し、ヨークトン映画祭で最優秀脚本賞を受賞します。2000年、初めて監督した長編映画「La Moitie gauche du frigo」、2006年映画「Congorama」も数々の賞を獲得します。
4作目となる作品、「いちばん大事なことは、教科書には載ってない。」というキャッチコピーで公開された映画「ぼくたちのムッシュ・ラザール」はアカデミー外国語映画賞にノミネートされます。
映画「ぼくたちのムッシュ・ラザール」を参考
映画「ぼくたちのムッシュ・ラザール」のインタビューで、監督は「移民問題というのは、私がもともと興味を持っている題材の一つ」だと語っています。
ケベック州のハルは、オタワ川を挟んで、カナダの首都であるオタワの対岸にあります。オタワからハルへは、アレクサンドラ橋などを歩いて渡るとすぐですが、オタワはオンタリオ州で、ハルはケベック州です。州境が変わりケベック州に入ると英語圏からフランス語圏へと変わります。フランス語圏ですから、言葉も道路標識もフランス語となります。
1492年にスペインのカトリック両王の命を受けたジェノヴァ人の航海者コロンブスがイスパニョーラ島へ到達し、アメリカ大陸を「発見」すると、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化が進み、ケベックにも1534年にフランス王フランソワ1世の命を受けた探険家、ジャック・カルティエが到達した。カルティエはセントローレンス湾周辺を探検し、この地を「ヌーヴェル・フランス」(ニュー・フランス)と名付け、フランス王による領有を宣言した。
最初に入植したのはフランス人で、その後イギリスが占領しますが、ケベックだけはフランス語圏として残ったのです。
スーダン共和国は北アフリカに位置し、地理的に中東とサブサハラ・アフリカを結ぶ地域に位置している上、エジプト、リビア、チャド、中央アフリカ、エチオピア、エリトリア、南スーダンと、9か国もの国境と接しています。 1983年、内戦が勃発、内戦は1983年から2005年まで続き、10万人以上の子供たちが両親や家を失いました。1990年後半から、アメリカはスーダンと協力し、3600人の孤児をアメリカに移住させました。
映画では、孤児となった子供たちが、自分たちが育った南スーダンから過酷な道のりを歩み、ケニアのカクマ・キャンプまで徒歩でたどり着きます。カクマ・キャンプで13年間過ごした後に、「難民の第三国定住制度」により、2000年アメリカ定住の機会を得ます。「電話」も知らない子供たちが、育った環境とまったく違う世界で就職し生きていくことになります。様々な葛藤と過去の経験による心のダメージなど浮き彫りにした映画です。 テーマは重いですが、文化や考え方の違いなど、コミカルに描かれている部分もあります。
フィリップ・ファラルドー監督の言葉 「94年、ドキュメンタリーを作っていた友人と戦時中のスーダンに滞在していた。2度の集中砲火に遭い、国連から避難を言い渡された。人々を置き去りにし、自分たちだけが助けられることに罪の意識を感じた。もちろん僕に責任はないけれども、その場を飛び立つ時、彼らを見捨てたと感じたんだ。その感覚が消えないままこの脚本を読んだ。あの場に戻って、彼らの物語を語り継ごうと思ったんだ」
役名 | キャスト | |
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マメール | アーノルド・オーチェン | 父親の死後2歳の時に母親と共に戦地から逃げてきた |
ジェレマイア | ゲール・ドゥエイニー | 元ロストボーイズで、幼い頃に少年兵にさせられ無情な扱いを耐え抜いてきた |
ポール | エマニュエル・ジャル |
フィリップ・ファラルドー監督の言葉 「僕たちが何を彼らに与えられるかだけじゃなく、彼らが僕らに何を与えられるかを知ることが重要なんだ。1人の人間同士としてね。世界の見方はいくらでもあるし、僕らのものがすべてではない。本作のテーマはそんなところにある。僕の映画に共通するテーマは‘人’なんだ。自分のことは知っているし、少なくとも知っているつもりではある。じゃあ自分の周りの人のことは知っていると言えるかな。他人を自分の人生に迎え入れるのは大きな賭けだ。でも賭ける価値のあるギャンブルだよ」
スーダンは、アラブ系イスラム教徒が多数を占める北部と、アフリカ系キリスト教徒が多数を占める南部が対立し、20年以上も南北の内戦が続いていました。2011年に南部が分離独立し、南スーダン共和国が誕生します。しかし、その後、南スーダンでは前大統領を支持する民族と現大統領を支持する民族との間で争いが起こり、2013年、キール大統領がマシャール副大統領(前大統領)を解任したことにより、武力紛争へと発展しています。独立後、経済の発展はストップし、治安は悪化しています。60以上の民族からなる多民族の国であることから、収拾が難しい状態です。