ジョージ・マーティン
2016年3月8日、訃報が舞い込んだ。ビートルズのほぼ全作品のプロデューサー「ジョージ・マーテイン」の訃報だ。著者の一人”かすがじゅんいち”は洋楽好きで、中でもビートルズ好きである。
1926年ロンドン生まれ、享年90歳だった。1996年、音楽での貢献が認められ、イングランド国王よりナイトの勲位を授与され、Sir George Henry Martin、Sirの称号が与えられた。
6歳の時にピアノに興味を持ち、8歳でピアノを習い始めるがピアノ講師と母親の仲が悪く、ピアノ講師から習ったのは8回のみで、その後独学でピアノを学ぶ。1947年~1950年にロンドンのギルドホール音楽演劇学校でクラシックの基礎を学び、ピアノとオーボエを習得する。1950年にEMI入社、EIMの傘下、ドイツ系のレーベルだったパーロフォン担当となった。1955年、パーロフォン社長のオスカー・プロイスが引退すると、パーロフォン社のヘッドとなり、コメディや企画物のレコードで成功を収める。
ブライアン・エプスタイン
1934年9月19日、リヴァプール生まれ。1952年、父親の家具店の1Fに作られたレコード店を任せられる。1656年、ロンドン王立演劇学校に入学するが挫折し、父親が新しく作った電気製品部門のレコード部門「NEMS」の担当者となる。1961年、音楽コラムの連載を始めた。
ブライアン・エプスタインとビートルズの出会い
ブライアン・エプスタインは自伝によると、1961年、ブライアン・エプスタインの店に、ビートルズのファンであったトニー・シェリダンが、ビートルズの伴奏シングル「マイ・ボニー」を買いに来たことによってビートルズの存在を知り、その演奏を見るために、ビートルズが活動拠点としていたキャヴァーン・クラブを訪れ、彼らの演奏を見て、彼らの音楽、彼らのビート、彼らのユーモアセンスに心打たれたと語っている。1961年、ブライアン・エプスタインが彼らのマネージメントをすることになる。
ブライアン・エプスタインは彼らにスーツとネクタイを着用させ、不良の雰囲気を払拭した。それが、ビートルズを一般層にまで浸透させる要因にもなった。
ジョージ・マーティンとブライアン・エプスタインの出会い
1961年12月、レコード会社のA&Rのマイク・スミスがビートルズの演奏を聴き、彼の薦めにより、1962年元旦、デッカ・レコードのオーディションを受けることとなる。ビートルズはデッカのスタジオで15曲を録音するが、オーディションには落選する。リバプール出身のバンドであり、「リード・シンガーのいないコーラス・グループは時代遅れ」という理由からだが、他のレーベルからも相手にされなかった。
ジョージ・マーティンは、デッカのオーデションに落ちたグループのマネージングをているブライアン・エプスタインの話を聞き、1962年2月にブライアン・エプスタインと会う。その時にジョージ・マーティンは、デッカで録音したビートルズの演奏を聴くことになる。5月、EMIのアビーロード スタジオで、ブライアン・エプスタインはジョージ・マーティンとの契約合意にこぎ着ける。まずはバンドの演奏を聴いてから契約書にサインするという内容だった。1962年6月、アビーロード スタジオで6曲を演奏し、契約に至る。ジョージ・マーティンは彼らに「ユーモアとカリスマ性を感じた」と後に語っている。
「5人目のビートルズ」ジョージ・マーティンとビートルズ
契約後、ジョージ・マーティンはビートルズのドラムに不満を感じていた。そこで、デビューに向けて新しいドラマーを探すこととなる。当時リバプールで人気があったドラマーがリンゴ・スターであり、彼をビートルズのドラマーとして迎えることとなる。10月5日、「Love Me Do」でデビューを果たす。1963年2月には、、「プーリズ・プリーズ・ミー」でヒットチャートNO,1を獲得した。
その後も、ジョージ・マーティンはプロデューサー、アレンジャー、セッション・ピアニストとして、ビートルズに影響を与えて行く。クラッシックの基礎を学んだジョージ・マーティンは、「Yesterday」や「For No One」にはクラシックの雰囲気を取り込んでいる。1963年2月発売の「プーリズ・プリーズ・ミー」以降、ビートルズが出すシングルはすべて1位を獲得している。ジョージ・マーティンは「5人目のビートルズ」と呼ばれていた。
ビートルズも含め、ジョージ・マーティンは、23もの楽曲をヒットチャートNO,1に送り込んだプロデューサーである。